令和3年度11月報恩講法要

当初、10月22日23日で予定しておりました報恩講法要ですが、1ヶ月延期し、11月22日23日の2日間、お勤めさせていただきました。22日・23日ともに約30人のお参りでした。

 両日共に、午後2時より『正信念仏偈』のお勤めをし、その後、約50分間、浄土真宗本願寺派総合研究所教学伝道研究室室長 龍谷大学講師の佐々木義英先生にご法話をしていただきました。

 聖徳太子は、推古30年(622)旧暦2月22日(太陽暦4月11日頃)に49歳で亡くなられたので、今年は没後1400年ということで、四天王寺などの太子ゆかりのお寺では法要が勤められています。

 西要寺本堂の御本尊に向かって右に聖徳太子の御軸を懸けさせていただいていることはご存じでしょうか。親鸞聖人は聖徳太子を「和国の教主」、つまり日本においてはお釈迦さま、日本において仏教を弘めてくださった方として尊崇されていました。また、親鸞聖人は和讃をたくさん作られております。和讃とは、たとえば『正信偈』のお勤めの時に、漢字だけでなく、カナ混じりのものを拝読しますが、そのカナ混じりのものを和讃というのです。親鸞聖人は、聖徳太子を讃える和讃も多く作られています。親鸞聖人は聖徳太子を尊崇されていたということもあって、浄土真宗の本堂には聖徳太子の御軸を奉懸している、ということです。

 京都市内に六角堂というお寺があることをご存じですか。正式名は頂法寺というのですが、上空からみると六角形のお堂ということで通称、六角堂と言われています。その六角堂は聖徳太子が建てられたお寺と言われています。親鸞聖人が9歳で出家得度され比叡山で修行をされるのですが、29歳の時に比叡山を下りられ、法然聖人のもとに行かれます。比叡山にとどまるか、山を下りるかに悩まれた親鸞聖人は六角堂に百日の参籠をすることを決断されます。その95日目の暁に聖徳太子(救世観音がこの世に生まれられた姿と言われていた)から夢のお告げを受けて法然聖人のもとへ行かれるのです。

 夢のお告げの内容についてははっきりとはわかっていないのですが、親鸞聖人が聖徳太子のことを讃えられていた文章のなかで、次のようなものがあります。

意訳しますと、我身(聖徳太子)は観世音菩薩、聖徳太子の妻は勢至菩薩、我が身を育てた母は阿弥陀仏である。つまり、それぞれ仏菩薩の生まれ変わり、ということです。観音菩薩の生まれ変わりである聖徳太子は、阿弥陀如来の生まれ変わりである母によって育てていただいた。阿弥陀如来のお念仏の教えを観音菩薩も弘められます。聖徳太子として生まれられた観音菩薩は阿弥陀如来のお念仏の教えを弘めた方として見られていったのでしょう。親鸞聖人を偲び、いまこの私に阿弥陀如来の救いのはたらきが届いているという浄土真宗の教えをいただいていくことができるのは聖人のおかげであると思いから報恩講法要をお勤めさせていただきました。