こちらでは「お役立ち情報」について書かせていただきます。どうぞご参考になさってください。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)の公式ホームページにおきまして、よくある質問というページがあります。
そこにはお仏壇、お墓、仏事、葬儀、礼儀・作法という項目に分けられて示されています。
お仏壇の項目には「お仏壇はどこに置く?」「お仏壇を迎える意味は?」「亡き人はどこへ?」「お仏壇のおかざりは?」「お仏壇の主人は?」「お仏壇を迎えて行うことは?」など。お墓の項目には「浄土真宗のお墓は?」「納骨とお墓参り」など、仏事の項目には「法事の意味」「法事のおかざりは?」など。葬儀の項目には「葬儀の意味」「お通夜の意義」「浄土に往き生まれるとは?」「葬儀の形態とは?」など。礼儀・作法では、「焼香の作法は?」「金封の表書き」「合掌の作法」「法名とは」など。
是非、ご参考になさってください。
「お念珠の持ち方」、「合掌・礼拝の仕方」、「お焼香の仕方」、「お仏壇のこと」、「お仏壇の御飾りについて」などが書かれています。非常に参考になりますのでご紹介します。
ただし、宗派によってやり方が異なります。ここでは浄土真宗本願寺派(西本願寺)のやり方です。
なお、浄土真宗本願寺派のお仏壇の御本尊と左右の脇掛につきましては、次にてお話します。
阿弥陀如来は私たちを救おうとして仏さまになられました。ご門徒の皆様のお宅のお仏壇のご本尊、お寺の本堂のご本尊も、いずれも立っていてくださっています。私たちのことが心配で座っていられないという慈悲の心より、阿弥陀如来は立っていて下さっているのです。
その御本尊の阿弥陀如来の、向かって右には「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」、左には「南無不可思議光如来(なもふかしぎこうにょらい)」、あるいは、向かって右に親鸞聖人、左が蓮如上人です。
親鸞聖人は浄土真宗を開いた人ということになっていますが、実際には浄土真宗を開く意思はありませんでした。しかしながら、亡くなられた後に浄土真宗という宗が確立し、親鸞聖人を開祖としています。蓮如上人は親鸞聖人から数えて8代目の方で、本願寺の教団を今あるように大きくされた方ということで、中興の祖と称されています。
ここまではわかりやすいと思いますが、もう一つの方の「帰命尽十方無碍光如来」「南無不可思議光如来」についてです。が、結論を先に言いますと、どちらも阿弥陀如来のことです。ちなみにですが、お仏壇の「帰命尽十方無碍光如来」の「碍」の字をよく見ていただくと、「碍」の字の石へんがありませんが、石へんの無い「碍」は「碍」の異体字(文字の意味と読みが同じ漢字)です。
まず、阿弥陀如来とは、声の仏さまと言われています。手を合わせて「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏・・」と言います。それは私たちが言っていることばではありますが、その声は「かならず救う、まかせよ」という阿弥陀如来の声なのです。
「南無阿弥陀仏」の「南無」という語は、インドの言葉でナマスという語の音写です。それは帰命、帰順、敬礼の意、つまり、まかせるという意味です。「帰命尽十方無碍光如来」の「帰命」と同じ意味です。
「十方」とは四方八方の八方に上下をあわせて十方、つまり「あらゆる方向」、「尽」は「ことごとく」、「無碍光(むげこう)」は「さまたげられることのない光」、「光」は「阿弥陀如来のはたらき」を示しています。つまり、「帰命尽十方無碍光如来」とは、「ことごとく あらゆる方向より さまたげられることのない はたらきをもった 阿弥陀如来」、その阿弥陀如来は私たちに「まかせよ」と呼びかけてくださっている如来、という意味になります。
また「南無不可思議光如来」とは、「不可思議光」、「わたしたちが考えたり思ったりすることのできないほど 優れたはたらきをもった如来」、つまり、阿弥陀如来のことをであって、「南無」とは、「まかせよ」と呼びかけてくださっている如来という意味です。
2つの掛け軸はいずれも阿弥陀如来のこと、そのはたらきを字でもって示してくださっているのです。